1998年8月10日〜21日
12日組は8月10日成田発の大韓航空、8日組は8月11日関空発のミアットモンゴル航空で、11日にウランバートルで落ち合うことになっていた。8日組の二人は大学時代の友人同士なのでてきとーにやってもらうことにして、問題は12日組のソウル1泊である。何しろ、直前にばたばた決まったので、韓国について調べている暇がなかった。泊まる予定のホテルも空港に近いせいか、ガイドマップ立ち読みではどこにあるのだかさっぱりわからない。とりあえず、空港にホテルまで案内してくれる現地旅行社の人が来ることになっているのだが…。
まずは、成田で誰も知らないPさんをみつけなければならない。そう、モンゴル初体験でネット上だけの知り合いという人だ。一応、特徴はきいている。大韓航空のカウンタ付近で待ち合わせということになっているし、怪しい恐竜Tシャツの一団を見かけたらきっと声をかけてくれるに違いない。
私は、友人から「夏休み、大韓航空のカウンタが混んでいて、予約した便に乗れなかったことがある。」なんて話をきいていたので、結構あせって早めに行った。なんのことはない、カウンタはがら空きで拍子抜け。すでに到着してたPantheonさんと落ち合い、ふと横のベンチを見ると、う、これは…怪しい…。思い切って声をかけたらやっぱりPさんだった。
成田最大の難関を苦も無く突破、ほかのメンバーもほぼ待ち合わせ時間に集まり、相変わらず空いているカウンタでチェックイン…しようと思ったら「10名以上は団体カウンタで」といわれてしまった。荷物の名札と数だけ確認してパスポートのチェックもなし。団体って、結構楽かもしれない。
この時期、韓国は大雨洪水騒ぎで大変なことになっていたが、着陸には問題なかった。焼肉食べようと5000円くらい両替した。しかし、両替窓口が「こっちも同じ」と呼び込みしているのには驚いた。お迎えの旅行社の人も難無くみつけ、送迎バスに乗り込んで一路ホテルへ。
実は、この送迎担当者には送迎だけでなく、すんごくお世話になったのだった。
なにしろこちらは韓国での手筈を把握していない状態、「○○はどうするんですか?」と聞かれて、「どうしよう」の連発。あの人がいなかったら、我々はどうなっていたことやら。
などなど。そのほか、帰りの乗り継ぎについてもいろいろアドバイスをもらった。
ソウルで一番あせったのは、航空券を持ってくる旅行会社の人から「支払いは?」と聞かれた時。そんなぁ…。電話だったので余計あせった。思わず、「日本で払ってます!」と私にしてはかなり強い口調で主張してしまった。まあ、そんなに心配することも無く、無事に航空券を渡してもらえたのだが。
ウランバートルに向かう飛行機の中で、我々はあることに気付いた。客室乗務員から渡されたモンゴル入国書類が、どうも出国用のカードみたいなのだ。キリル文字で「出る」と書いてある。乗務員はモンゴル語がわからないらしく、この便には別のカードもないらしい。まわりの韓国人とおぼしき人々はなんの迷いも無く、このカードに書いている…。我々は念のため、ウランバートルの空港についてから入国用書類を見つけて書き直したのだが、カードのせいで差し戻しになっている人はいなかったようなので、あれでよかったのかもしれない。
さて、緊張の入国審査である。私は、係官に自分のパスポートと書類を渡し、みんなの審査が終わるまでブースの側に立ってる。係官は書類と照らし合わせながら各自のパスポートと顔をチェックする。…何もきかれない。無言のうちに全員パスして、おしまい。あとは、スタンプのおされた書類と自分のパスポートをなくさないようにしないとね。考えると気が重いので、考えないことにした。
審査をぬけた外には恐れ多くも社長のオユンナさん自らがお出迎え。ああ、もう大丈夫だっ!
南ゴビ行きはバルスボルド博士と一緒だった。空港に着くとオユンナさんが係員室みたいなところの扉を…。中の人と何やら話して、我々にも入ってこいという。言ってみるとバーのカウンターのようなものがあり、奥にはソファーがある。なんとそこはVIPルームだったのだ。元・国会議員の博士と一緒だとこんなこともあるのか!
とはいっても、そんなところでくつろぐことに慣れてない面々、スーツケースをそこに置いて空港内ショップの探索にでかけてしまった。
飛行機は南ゴビのツーリスト・キャンプ前におりる予定だった。しかし、雨で地盤がゆるんでいて降りられないとかで、去年と同じダランザドガドの空港に着陸した。ほどなく、ツーリスト・キャンプから迎えのバスがきた。1時間くらいかかるというからだらだらしていたのだが、30分くらいでやってきた。さすが、ツーリスト・キャンプのスタッフは気合が入っている。
ツーリストキャンプでお昼を食べてから同じバスでツグリギン・シレへ向かった。途中、ガゼルの群れに会った。去年もおととしも見なかった大群である。我々のバスと博士の載ったミニバンは、しばし、ガゼルを追って草原を疾走した。
その後、お決まりのエンコがあった。バスのエンジンが止まってしまったのだ。運転手が修理する傍ら、我々はトカゲを捕まえたりバッタを捕まえたりして遊んでいた。エンジニア根性を刺激されたらしいメンバーの一人(一昨年のフルンドッホで同じ班だった群馬県民。彼はメカ屋さんではないのだが…)が運転手を手伝っていた。
さて、能天気な他のメンバーが遊び飽きてもバスはなおらない。重傷らしい。1時間半くらいたっただろうか、我々は博士のミニバンに乗って先にキャンプ地へ向かうことになった。ピストン輸送体制だ。ミニバンに荷物を満載し、博士たちと修理を手伝っている群馬県民を残して、11人は出発した。実は、今回メンバー半分がエンジニア系なのだ。だから、誰も彼ひとりを残していくことを躊躇しなかった。エンジニアっていう人種はああなったら解決するまで離れないない、ということは言わずもがなだったのである。
キャンプ地に着いたのは午後7時頃だった。我々の乗ったバスでツーリスト・キャンプに戻るはずだった人々が首を長くして待っていた。我々の前のグループ、上毛さんの一般ツアー8日間プランの人たちである。上毛さんの担当者が添乗員として、去年の我々のガイド・チェチェさんが案内係としてついていた。キャンプ地には何故かアメリカ人観光客がいて、ゲルを前に写真をとっていた。このキャンプ地を“観光”にきたらしい。
前のグループの人たちと「なにをみつけた?」なんて話をしているうちに、あら、バスがやってきた。修理できたらしい。我々に遅れること30分くらいだった。群馬県民の話によると、電気系統の接触不良で、針金がうまく結べず、運転手が突き刺した小枝一本でとまっているらしい。ともあれ、一般ツアーの人々はそのバスで約3時間の道のりを帰っていった。無事だったのだろうか…。