最後に、旅程などの話をしよう。
今年のツアーは関西国際空港発だった。モンゴル4回目にして初めての直行便だ。しかし、これは臨時便。関空を夜の10時に出てウランバートルに夜中の1時(現地時間:時差は1時間)に着くのである。着いたらホテルで仮眠して早朝の飛行機で南ゴビへ、という強行スケジュールだった。
ウランバートルの空港へ着いたら、きているはずの迎えがいない。現地旅行会社は毎年お世話になっているNew Monである。手配漏れということはないと思うのだが…。
我々は出発直前にホテル変更のお知らせをもらっていた。しかし、それが到着の夜に仮眠するホテルなのか、ゴビから帰ってきてから泊まるホテルなのかわからない。
班長さんが電話をかけにいった。空港の電話はテレホンカードじゃないと使えない。夜中なのでテレホンカードを売っている売店は閉まっている…。電話を使っている他の人にカードを借りて、New Monの社長・オユンナさんの自宅にかけたが、不在だったとのこと。
ぼーぜんとベンチに座る我々に、タクシーの運転手が声をかけてくる。ホテルもはっきりしないし、明朝早くにまた空港へ戻ってこなければならないので、下手に動くこともできない。やがてタクシーの運転手も去っていた
宿直の係員以外、人がいなくなった空港、夜中の2時半になってNew Monの人がやってきた。なんでも、日本からの連絡で到着時刻が2時半頃の予定になっていたそうだ。それで、手続きを終えて出てくるのは3時頃だろうと踏んでいて、2時頃空港へ到着時刻を問い合わせたらもう着いてるというので泡食ってでてきたとか。
確かに、ツアー日程公開直前まで日曜出発の予定で、それだとそのくらいの到着時刻になっていたはずだ。金曜発に変更になったあと、連絡がちゃんといっていなかったらしい。まあ、知らせない方も、事前に確かめない方もどっちもどっちだと思うのだが…。
朝の6時には空港に戻ってこなければならないということで、結局、我々はそのまま空港で朝を迎えることになった。
ツーリストキャンプに飛行機横付け
ウランバートルから南ゴビへは飛行機で約1時間半である。今年の飛行機はジュルチン・ゴビのツーリストキャンプに降りた。去年もツーリストキャンプに着く予定だったのだが、雨が多くて路面の状態が悪く、南ゴビ県の中心地・ダランザドガドの空港のほうに降りた。横付けは初めての経験である。
発掘のキャンプ地までは、そこから右の写真のようなミニバンで2時間。いつもは道中必ず何かのマシントラブルに見舞われるのだが、今年は往復とも不思議なくらい順調に到着した。
帰りもツーリストキャンプ発の飛行機に乗った。
今年はツーリストキャンプもグレードアップしていた。トイレ棟とシャワー棟の内部が改装されていたのだ。シャワーブースには脱衣スペースができていた。ここは夏場、日本人で満員になる。ウハウハ儲かっているに違いない。
きれいになったトイレ棟とシャワー棟
帰りはウランバートルで一泊、宿泊はジェネックスホテルというところだった。新しいホテルらしい。街の中心部から北東、ガンダン寺のそばにある。古いガイドブックには載っていないが、99年版の「地球の歩き方」によると中級ホテルらしい。
確かに、外装も内装も新しくてきれいだった。しかし、仕上げが雑で立て付けが悪い。すぐにぼろくなるに違いない。従業員は美人でスタイルがよかったが、いまいちサービスが悪い。ホスピタリティに欠けるというのか…。おまけにどういうわけか、お湯がでなかった。うーん、これじゃ、日本人にはウケないぞ。
ちなみに、お部屋の電話はSONY、テレビはJVC、湯沸かしポットはフィリップス製だった。
南ゴビから戻った日の午後に市内観光をした。
といっても、我々には自然史博物館以外、特に見たいところはない。そこの見学は翌日の午前中にセッティングされている。モンゴル初めての人もいることだし、ということで、とりあえずガンダン寺とザイサン・トルゴイにいくことになった。
私はガンダン寺には前にも訪れているが、大仏殿に入ったのは初めてだった。ここは1996年秋にオープンだから、私がモンゴル初回に博物館やお寺めぐりをした時にはまだできていなかたのだ。
モンゴルでは社会主義時代に知識人であるお坊さんたちが弾圧されて、たくさんあったお寺もなくなり、自由化になった時にはウランバートルでお寺として機能しているのはガンダン寺だけだったという。ここの大仏も自由化になってから新たにつくられたものだ。
大仏様 |
大仏の下 壁一面に信者が寄贈した小さな仏像が並ぶ。 |
まつられているのはラマ教の「メグジドジャンライサグ(だったかな)」という観音様だそうだ。腕が4本ある。お坊さんがついて、高さがどれくらいとか金箔をどのくらい使ったとか説明してくれる。写真を撮ってもいいというので撮ったら1枚2ドルといわれた…。我々のガイドが領収書を要求すると「あなたは文化財に寄付しました」っていうのが書かれた紙をくれた。
ザイサン・トルゴイは街の南の小高い丘にある記念碑である。ウランバートル市内を一望するに絶好のポイントなのだ。
しかし、ここは戦勝記念碑。第2次大戦中に日本が侵略したハルハ・ゴルの戦いにモンゴルが勝った記念のプレートなんてのもある。深く考えると日本人がはしゃぐべき場所ではないのだが。
ここへ登る階段はかなり長い。ツグリギン・シレの荒野で鍛えた(?)足にもかなりきつかった。観光とは体力のいるものである。
最後に愚痴である。
今年は手配で苦労するのはいやだったので、「ツアーがあればいく」というスタンスで、何もしなかった。それというのも、中里村と恐竜王国友の会後援のツアーが今年こそちゃんと開催されるというから…。
しかし、見通しは甘かった。関係者が年末からいろいろ画策していたのに、主催旅行会社が決まって募集をはじめたのが6月末。第1班の申し込み締め切りまで2週間くらいしかない。そんなんじゃ、宣伝もできない。結果、最少催行人数10名というところ、第1班6名、第2班6名、第3班3名となってしまった。まあ、それでも開催されたのだからいいか。
今年は飛行機問題はなかったが、またもや日本側旅行会社に問題が…。持ち物連絡の不備、フライト時間通知の漏れ、挙げ句に、ビザの期間が足りない人が!
私と同じくモンゴル4度目のMinew氏は第1班〜第2班ぶっ続けで滞在することになっており、帰りの飛行機のチケットも別に持っていた。なのに何をどう間違ったか分からないが、ビザだけ第1班のグループビザだった。グループビザということは我々と一緒に出入国しなければいけないはずだ。しかも我々のビザは滞在8日となっていた。彼は15日いるのに…。パスポートは関空渡しだったので、事前確認はできなかった。あんまりだ。結局、現地旅行社の人が苦労してビザ延長の手続きをやってくれて、彼の帰国日当日の午前中に手続き完了したそうだ。
いい加減、手配会社を固定して年々学習していってもらいたいものだ。
おまけ・フランス料理店のトイレ 最終日にランチを食べたレストランのトイレ。ピカピカ。だが、ここにもモンゴル・ルールが。便器の脇の大きなバケツはペーパー捨て。モンゴルでは水洗トイレに紙を流してはいけないのだ。 |
私はゴビでは元気だったのだが、都会に戻ってから風邪を引いて、日本に到着した時は熱まで出ていた。東京に出ると空気が悪くて頭痛がするたちである。ウランバートルといえども、大気汚染が進んでいたらしい。
来年は再びフルンドッホという噂もある。10人集めればヘリコプターを飛ばしてネメグトにつれていってくれるという話もある。さて、どうするか。
私は去年も今年も借金して発掘ツアーにいっている。来年のことは…、来年考えることにしよう。
おしまい